U50 第62回 濱野 怜さん
アンダー50として、2018年から2024年3月まで、
50才未満の若手市民活動家へインタビューを重ねてきました。
「活動を始めたきっかけや思い」など、
62名それぞれの軌跡が
多くの方々へのエールになるよう願っています。
濱野怜 さんプロフィール
濱野怜さん
ホームレス支援CoE(コエ)代表
幸区在住
濱野さんは幸区在住の23歳の大学院生です。
「CoE(コエ)」の代表を務め、2021年10月から毎週木曜日の夜、リヤカーに炊飯器を乗せ、川崎駅周辺でホームレスの人たちに温かい手作りのおにぎりとお味噌汁を配りながら夜回りを行っています。濱野さんは親しみを込めて「友だちのおじさん」と呼び、「温かく・楽しく・格好よく」をモットーに活動の様子をSNSで発信をしています。
今後は、おじさんたちの社会復帰につながる仕組みづくりを見据えています。
――「CoE」の活動が生活クラブ神奈川の2023年度キララ賞(神奈川県を拠点にさまざまな分野で活動し、頑張っている若者を応援する賞)を受賞されたとのこと、おめでとうございます!
受賞できて嬉しいです。
今回は過去最多の応募数があったと審査員の方がおっしゃっていました。活動の甲乙はないにせよ子どもの居場所支援や農業など様々な分野がある中で、将来性への投資という側面で考えると、ホームレス支援へのサポートはあまり意義を見出してもらえないのではないかと危惧していました。
受賞2枠のうちの1つに僕らを選んでいただけたのは、おじさんたちの価値というか魅力をわかってもらえたんだなと、そこが嬉しかったです!もしかしたらネックになるかもしれないと思っていた部分が逆に評価された気がします。
ありがたいことに、地域の方や東北の方から食糧の支援をいただいたりしていますし、僕のアルバイト代も含めると普段の活動に必要なものは賄えているのですが、活動のゴールは僕らが仲良くなったおじさんたちの居場所を作りたいので、今回の受賞でいただいた賞金はそのための貯金にします。
社会格差をなくしたいと感じた原点
社会格差を感じる場面は小学校時代からありました。
同じクラスの中でも中学受験をする・しないがありましたし、地域内でも比較的恵まれた家庭が多い場所と少し大変な子がいる場所があるのは感じていました。
小学生のとき、親の職業や住んでいる場所について同級生にからかわれたことがあります。確かに僕は恵まれた環境で育ったと思いますが、自分以外のことであれこれ言われたりするのはすごく嫌でした。彼らに悪気はないしネガティブな気持ちで揶揄したわけでありませんが、親の仕事や住んでいる場所は自分が勝ち取ったものではなく、たまたまそういう環境に生まれただけなのに、それが悪いみたいに言われるのは違うのではないかと。
人との関わりのなかで格差的な関係性が生まれてしまうのが嫌でした。
子どもの頃はそういった経験もあり、総理大臣になって社会を変えると母親に言っていたらしいです。でも中学で私立の男子校に入ってからは、同じような環境の子たちの中にいたので、そういった感覚が鈍ってしまう時期もありました。
高校2年の頃、バドミントンに強くなりたいとジュニアクラブに入ったら、小学生たちと知り合う機会がありました。そこでもやっぱりおかしいと感じたのが、僕が大学受験をするとき、その子たちに「私は大学なんて行けないよ。なんかハマチャンってすごいね」みたいなことを言われたんです。練習場では仲良しで楽しく接していても家庭環境的にはそれぞれに事情があることを知ると、自分は本当に恵まれているんだと実感させられました。
そして、この子たちを差し置いて自分だけが良い思いをして終わる訳にはいかない、という感情が生まれました。
だから進路を決める際に社会を変えるために官僚になりたいと思いました。
――それが大学生時代に選挙を手伝うきっかけなんですね。
大学入学後、インターンシップで横浜市議会議員のところで2ヶ月ぐらいお世話になりました。政治家と公務員のやり取りを見ているうちに、実際に政策を決めたりするのは政治家の側だということがわかりました。
本気で政策作りをやるのなら政治家になる方が良いのでは、と方針を変えた時期に地元で選挙があり、手伝うことになりました。
衝撃的な出来事と新しい出会い
真夜中、川崎駅で翌朝の演説の場所取りをしているとき、すぐそばでホームレスの女性が倒れました。
おそらく普段からそこにいらした方だと思うのですが、自分にとっては景色の一部みたいな感じで気に留めていませんでした。
そのときは、騒いで泣き叫んでいるやばい人がいるぐらいの感覚で、どうしたらいいかわかりませんでした。自分が関わったとしても、その後どうしたらいいかわかりませんでしたしね。
傍観していたら、彼女を介抱したホームレスの男性に「社会を変えると言いながら、目の前で困っている人を助けないのか。そんなんじゃ社会は変えられない」と言われたんです。
それがかなりの衝撃でした。何か火がついたというか、自分の情けなさが恥ずかしくなりました。彼らを助けられないのに子どもを笑顔にするなんて出来ないと。
まずは一歩と、翌日コンビニでおむすびを買い、その女性が歩いている辺りをウロウロして「すいません」と声をかけました。
いいですって警戒されてしまい話ができませんでしたが、くじけずに日参しているうちに打ち解けてくれて話ができるようになり、ちょっと仲良くなれました。
――そこでホームレスの人たちが置かれている現状を知り今の活動に繋がっていくのですね。
話を聞いていくうちに、ホームレスの人たちは精神疾患を持っていたり、女性ホームレスのシェルターが少なかったりする実態を知り、社会が抱くイメージを変えるために地域の人と彼らが交流できるイベントを開催して、実際に話して知り合うと変化があるのではないかと考えました。
そのために、町の清掃ボランティア活動をしているグリーンバードへ学びに行ったら、ホームレス支援ならNPO法人ふれんでぃの皆川さん(U50の第7回に登場)がいいのではと繋いでくれました。大晦日の夜回りに同行し、おじさんたちがいる場所を教えてもらいました。駅で出会った女性だけではなく、この人たちとも同じように話をしたいと思ったことが、CoEの活動に繋がりました。
グリーンバードでお世話になった方や大学のボランティアセンター経由の参加者が手伝ってくれています。
毎週木曜日の19時半頃から川崎駅周辺の各拠点を回り約30人ぐらいに手渡します。普段の生活では冷たいものを食べることが多いと思うので、温かく美味しいものを食べて心をほぐしてもらえたらと、リヤカーに発電機と炊飯器など炊き出し必要なものを積んでいます。週に1回でも、過酷な日々を過ごすおじさんたちがほっとする一時になればと思っています。
――おじさんたちからのリクエストなどありますか?こんなものが食べたいとかお味噌汁の具はこんなものが好きとか。
あります。あります!でも図々しい感じではなく、好きな具が来たときに「これが大好きなんだよね」とか「このお味噌汁が一番好きなんだよね」という風に、本当にさりげなく伝えてくれます。前は僕らを待っている間、1人ひとりがバラバラに待っていましたが、今では会話をしながら和気あいあいとコミュニケーションを取り合っています。
活動のこれからと最終目標
――活動を始めて3年目ですが、地域の人の関わり方に変化はありましたか?
銀柳街の途中で歓楽街のような場所を通りますが、以前はリヤカーを引いているのにキャッチの人が誘いにきました。現在は全く声をかけて来なくなり、何かちょっと伝わっているのかなという感じです。
僕の周りの人や地域の知り合い、バイト先でも、マスクなど大量に余剰品がある時は、もしよかったらと、一番に僕らに連絡をくれます。おじさんたちや僕らの活動を思い出してもらえて嬉しいです。
最終的な目標は、ずっとリヤカーを引くことではなく、ホームレスや生活に困窮する人が然るべき場所できちんと生活できることです。
ですが、どのような支援が一番いいのかわからない場合があります。自分が思う正しさと、おじさんたちが感じていることは違うかもしれません。共同生活が合わず路上に戻って来てしまう人もいます。
だから、川崎駅から遠くない場所におじさんたちが社会や地域と接点を持てる居場所を作りたいと考えています。
外から見えない保護施設ではなく、コミュニティカフェのような雰囲気の街の縁側的な場所で、夜はおじさんたちが安全に過ごせる場所。人生の苦みを知っているおじさんたちが淹れるコーヒーを飲みながら、彼らと気軽に話ができるカフェようなイメージです。
おじさんたちだってホームレスになりたくてなった訳ではないですから、おじさんたちなりの色々な苦い人生があったりします。人の話って、人生の成功談を聞くことの方が多いですが、そこに到達するまでの失敗も沢山あると思います。おじさんたちに成功例がないとは言いませんが、人生の苦い経験をしてきた彼らとだったら、辛い話や失敗した話も気軽に話せるのではと思うんです。
人と関わることで衛生面などにも気を遣うようにもなりますし、徐々に社会性を取りもどしてもらう感じですね。
もちろん誰もがわかりやすく稼げるような社会復帰ができるとは限りませんが、少なくとも路上から一歩前に進むというのかな。
あと2年は学生でいられます。その間に実現してCoEの活動に一区切りつけたいと考えています。その後はおじさんたちの居場所に時々顔を出せる関係でいられたらいいですね。
この活動を通じて「社会課題に対して、学生でも一つの解決の形を提示できるんだよ」ということを示せればいいなと思っていいます。
(取材日:2024年2月5日 並木)
(情報更新:2024年3月26日)